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March 2012 の投稿一覧です。

カテゴリー: 総合

投稿者: imaeda

最近維新の会政治塾の話ばかり続いていますが、弁護士業務もきちんとやっています。
今日は、そごうの消費者相談に午後1時から4時半まで行ってきます。

4月2日月曜日の午後7時から、RCCラジオの生番組に出演することになりました。やはり今話題の、大阪維新の会政治塾と、橋下徹氏に関する話が聞きたいようです。
私はあくまでも、まだ維新政治塾の受講生となったばかりで、これから選考を受けて6月から初めて正式に塾生になれるかどうかという段階ですから、維新の会で確固たる地位を築いたわけではありません。この点のご理解はどうかよろしくお願いします。
先のことをあれこれ話すのは、私は弁護士として依頼者に迷惑をかけられないという制約がありますし、自分だけで決められることでもないので、何も言えないというのが正直なところですが、関心を持たれているところであるので、あくまでも現時点の気持ちという前提で話そうと思います。

カテゴリー: 総合

投稿者: imaeda

恥ずかしながら、維新政治塾に応募したときの論文をお見せします。
いろいろと関係ないウンチクを展開する点、同じことを繰り返し書く点は反省材料です。
誤字脱字も気づきましたが、原稿のままで出します。


大都市制度について
                       平成24年2月6日
                          今  枝    仁
1 都市の形成とわが国の風土
  大都市制度の問題プロパーからは話がずれるが,誰もが論じるようなことを論じても面白くないし,都市にも人間にもオリジナリティが重要だと思うので,大都市問題を考察する上での前提として,都市が形成されてきた経緯及びわが国におけるその意味をまず論じる。
  太古の昔,人々は,狩猟,漁労,採集により生計を立て,一部の洞穴居住者を除けば,定住地を持たず,よって都市は形成されなかった。
  しかし,農業革命により,生活は一変した。農耕地の開拓には労力が嵩むため,一定した農耕地付近に集まって居住する必要が生じた。また,農作物の貯蓄により冨が発生し,貧富の差や身分の差も生じ,文明が生まれ,抽象的思考が発達し,宗教や指導者も誕生した。
  最初の古代都市文明は,系統不明のシュメール人が入って誕生したペソポタミア文明である。次いで黄河,ナイル川,インダス川と大文明が発生したが,いずれも洪水が頻発する大河川の流域だったのは,洪水により肥沃な農耕地が獲得できたからであろう。これら流域の文明は,ピラミッド等の巨大建築物を構築するまでの巨大権力者を生んだが,都市の営みは必ずしも民主的なものではなく,永続することはなかった。
  民主的な都市が生まれたのは,エーゲ海沿岸・ギリシャのポリス,そしてローマ帝国における港湾都市である。貧富の差,身分の差も進み,施政に意見を述べる市民層が生まれた。そして知識や技術の蓄積が進むようになり,文明は加速度的に進歩した。多数の国家が興亡したヨーロッパの文明が世界で先行し,アメリカ大陸に植民地型大都市を多数生み,今日のアメリカ合衆国の覇権へと結びついている。
  わが国において,都市の萌芽が芽生えたのは,稲作文化が根付いた弥生時代後期である。中国における都市国家は,「国」という字が示すように,四角で囲った城壁の中に,王が鎮座していた。他方,わが国における弥生集落は,佐賀県吉野ヶ里遺跡に象徴されるように,環濠集落,つまり「わ」(輪,環)の境界を持つ,プレ都市だった。だから当時,わが国を「倭」(わ)と呼んだのである。
  「わ」の集落どうしが結びついてより大きな共同体になることを,「えん」(縁,円)ができる,と表現した。「えん」も,「わ」同様,丸い形や円満さを表した。わが国の国民は稲作を中心とした農耕民族であり,地域社会での協力関係が必要なことから,まず「ムラ」(村)単位で,人と人との「わ」を大事にした。その意味で,わが国の集落都市を表す「わ」に「和」の字があてがわれた。
  そして,豪族の権力が増大し,巨大な古墳が築かれる時代の到来と共に,初めて北九州から近畿までを統一する強権国家が奈良盆地南部に誕生したが,その首都の名前は,大きく「和」がまとまったという意味の,「大和」だった。大和時代が終了して1500年経つ今でも,「大和なでしこ」「大和魂」のように,「大和」がわが国を象徴する表現に用いられるのには,かくのごとき背景がある。
  ちなみに,「わ」や「えん」等,丸くて円満な様子がわが国のシンボルとなった根拠は,ほかにも,わが国初めての憲法である,聖徳太子による17条憲法の第1条に「和をもって貴しとなす」とあること,わが国の通貨が「円」(えん)であること,もともとは旧江戸幕府の船旗だった現在の国旗「日の丸」もまた「わ」「えん」の形であることなど,枚挙に暇がない。「わ」は,現在のわが国を表す,「和風」「和服」や「和食」にも繋がる。「わ」は,わが国を象徴する概念であるとともに,わが国の理想的国民性を志向する,円満性,協調性を尊ぶイメージとして定着する。
  その後,中世の貴族政権の時代,先行していた中国の文明を意識し,わが国においても中国の都城を真似た「国」型の条理都城が,近畿地方の中原に,平城京,平安京と構築され,わが国で初めての本格的都市を形成した。しかし,このような計画都市は,市民の自然な集積から誕生した都市ではなく,「国」の施策として半ば押し付けられたものであり,この頃から,「わ」と「国」の分離が進んだようである。「わ」は「わたし」,つまり私事や人の和であり,「国」が指し示す公事とは区別されるようになった。
武家政権に移った後は,首都機能は,京都から鎌倉,また京都,そして安土,大阪と変遷した。鎌倉と安土においては,「国」からの政策的な都市造成がなされたが,大阪においては,都市そのものが持つ活力と,海外との貿易機能が重視され,「私」の活力が発揮された。大阪から東遷した江戸は,「国」がわが国全土を支配するための計画都市であったが,政権が長期安定したことから,「わ」の町民文化も華やいだ。このころから,都市の形態は,城下町,寺の門前町,港町等,多様化した。戦国時代の城の多くは,守備のしやすい山上にあったが,江戸時代からは,計画的に都市を形成しやすい平地に大きな城下町を構成し,その多くがそのまま現在の大都市へと発展している。城内や城付近の土地が,国や都道府県の用地になっている場合が多い。また,武家政権においては,特に厳しく「私」(わ)と「公」(国)が区別された。
このように,わが国の大都市制度は,わが国の歴史上,基礎自治体とも言うべき「ムラ」(村)の「わ」(和)が基礎にあり,広域自治体としての「国」(公)に発展してきた経緯と,次第にそれらが分離してきたという特質を考慮に入れて,検討する必要がある。
2 大都市制度の経過
明治維新以降,都市は急速に近代化した。廃藩置県により都道府県制度を整備すると,富国強兵政策の下,軍都や軍港という新しい「国」(公)の役割を担った都市が登場し,戦争の繰り返しにより繁栄した。明治21年から,「市」制度が始まった。その後,東京,大阪,京都の市長は府知事が兼ねる三市特例,六大都市への府県知事の許認可権を制限する六大都市行政監督制と制度は親切された。前者は,府知事の市制への介入を強めるものであったのに対し,後者は,市の府からの独立性を高め,市の独自性を強化したものであった。
第2次世界大戦中に,戦時体制として,東京都が直轄する東京の区制度が設けられた。区を包摂した東京市を廃止し,府と市を一体として新たに東京都として,その下に東京市を介さない区と,その他市町村が配される体制となった。戦時体制としては,首都防衛のために,国と直結する都に,東京都に権限を集中する目的を担った。つまり,現在のように首長を公選にしている住民自治重視の特別区とは,性質を異にした。
第2次世界大戦時の空襲や原子爆弾投下により,多くの都市は壊滅的打撃を受けたが,驚異的な復興と高度経済成長の過程により,商工業集積地として発展した。京浜,京阪神,中京の三大都市圏に加え,札幌,仙台,広島,福岡の地方ブロック中心都市の中枢化,大都市化が進み,他の中小規模都市との差別化が進んだ。
戦後の大都市は,主に地方自治法の制定とその改正,及び政令により,制度の基盤を与えられた。
2 わが国の大都市制度の構築
  戦後の大都市制度は,GHQによる占領政策の一環として,分権促進の方向で整備された。
  都に権限が集中された東京都制も方向転換され,都長官に加え,区庁の公選化が定められ,より地域に密着した分権自治が促進された。都の区は,特別区として,特別地方公共団体とされた。制度としては,市と同様の基礎的自治体と位置づけられた。
  並行して,地道府県とは独立した権限を持つ特別市制度も設計されたが,五大市を含む府県の猛烈な反発に遭った上,人口的にも東京都ほど府県内での集中度が高くなかったこと等もあり,五大市の特別市移行は進まず,結局特別市制度は廃止された。
  特別市制度に代わって登場したのは,指定都市制度である。プレ指定都市制度として,中核市,特例市もあるが,大都市制度を論じる場合は,少なくとも現時点で指定都市となっている市が対象となる。
指定都市の指定は,政令によることとされ,人口50万人以上の市が対象となている。当初は,五大市及びそれに匹敵する大都市,つまり人口100万人規模の大都市が指定の対象と想定されていた。しかし,2000年代に入り,平成の市町村合併が推進される過程で,合併して人口70万人程度の都市も,政令指定都市とする運用が定着した。
  指令指定都市の特徴は,都道府県の事務のうち福祉関連や消防救急,都市計画等の事務が分配されること,都道府県による関与が緩和されていること,区を設けること(但し区長は市長が任命するので首長公選ではない),税制上の特例があること(但し区に独自の予算編成権はない)等にある。しかし,区長を市長が任命するという点や,組織体制上も,政令指定都市の区は,住民自治という観点からも,団体自治という観点からも,十分ではなく,これらが比較的確立している東京都特別区とは,まったく様相を異にする。区は,指定都市の出先機関と化しているのが実情である(出先機関としては,そこそこの住民サービスに役立っているとも評価できる)。
  さらに,指定都市とされている都市は,規模や性質も多種多様であり,これらを同一のパッケージに納めて円滑に運用することは,もはや困難と言わざるを得ない。また,指定都市は,中核都市,特例市と規模は異なっても,結局は,都道府県制度の中で,膨らみ過ぎた市をどう扱うかという視点や本質は大きく変わらない。特に一部の大都市は,道府県に比肩する規模や行政能力を保有しているにもかかわらず,一般の市町村と本質において大きく異ならない指定都市制度が適用されるに留まり,地方自治制度の中で大都市の役割や性質が法律上明記されていないため,特殊な事務配分の構成となっている。そのため,道府県に事務権限が留保されていたり,一定の関与を是認しなければならない等,二重行政,二重監督の問題が生じている。
  しかし,大阪,名古屋,横浜の三大都市については,その規模がすでに道府県を凌駕している。世界に冠する超大企業の本社や支社が連なり,外資系企業の進出も多く,わが国経済のカンフル剤として,国際的に競争力ある超大都市圏域を構築する必要がある。周辺市町のベッドタウン化により,大都市自体の人口集約度は,比較的低くなる場合もあるが,中心部における昼間人口,都市性はさらに鋭くなっていき,大都市の役割に特化していく。
札幌,仙台,広島,福岡の4都市は,それぞれ市内や近辺にベッドタウンの多くを抱えながら,地方における中枢都市としての役割が求められる。
千葉市,さいたま市,川崎市,堺市等は,大都市圏の郊外型の都市として,住民の多くは昼間他の大都市に出勤している等,特有の問題がある。
京都,神戸等は,大都市大阪のベッドタウンとしての役割をある程度果たしつつも,それ自体が集約性の高い都市であるという,独特の二面性を有する。
  このうち,大阪,名古屋,横浜の超大都市は,地域主権型道州制導入とリンクして,道州から独立した「都市州」の設置を提言し,指定都市市長会は,広域自治体と同等の規模・構成の「特別自治市」を提唱している。
  さらに,東京の都区制度を大阪府・大阪市・堺市に適用し,2重行政を解消しようという「大阪都構想」や,同様に愛知県・名古屋市に適用しようという「中京都」構想が,それぞれの地域の首長から提起されている。
また,特殊な例であるが,新潟県と新潟市を合体させる「新潟州」構想も出されている。
4 大都市制度の考察
  繰り返すが,そもそも,現時点で約20もの都市に適用されるに至った指定都市制度を,大阪,名古屋や横浜のような国際性豊かな超大都市と,静岡,浜松や岡山のような中規模都市まで,同じパッケージで対応しようというのがもう限界である。グローバル化時代の到来により,これら三大都市は,わが国の代表都市として,世界との都市間競争に勝ち抜ける基礎体力をつけ,その力を遺憾なく発揮しなければならない。また,これらの超大都市が,周辺の大都市の発展における経済的な牽引力を発揮するとともに,国の制度を動かして立法活動を支えるような政策能力をも具有することが要請される。東京を中心とした一極集中体制はすでに飽和しており,三大都市の各地域が切磋琢磨して他の地域を牽引する多極化社会が志向される。
  また,少子高齢化社会の到来によって,地域社会のニーズはこれまでとは一変してくる。産業集積化,商業集約化型の都市発展は行き詰まり,都市は成熟してドーナツ化現象を来し,周辺部はベッドタウン化して集中的に高齢者を増加させている。超大都市は,都市の内部でも地域によるニーズと役割分担の分極化が顕著であり,地域それぞれが活力ある自立をしていかなければならない。超大都市の現在は,中核都市の未来,中規模都市のさらなる未来である。超大都市の各地域が,都市の現代的課題を克服して,成長モデルを示すことにより,中核都市や中規模都市は活力を見出すことが出来る。このようにして,超大都市の各地域は,わが国全土の地域を牽引する役割を果たしながら,同時に,グローバル化社会に対応して,競争力ある地域の価値創造も可能である。そして,超大都市の各地域が,活発な自治体経営をなすことで,少子高齢社会の進行の中での,持続可能な成長モデルをも構築しなければならない。
  これらの課題は,超大都市を,これまでの地域の中枢機能だけではなく,メガ大都市であるがゆえの,多機能集積面をより活用しようという観点から捉え直し,より住民に身近な地域から再構築することによって,克服されなければならない。そのようにして初めて,地域の資源や能力を適正に把握し,長期的戦略を練って配分,活用できるようになる。その意味では,大都市を地域別に区分して基礎自治体となる「区」の,政策課題を選択する首長公選制と,予算編成権は,必要不可欠である。また,財源の移譲を含め,「区」地域の自主財源を制度として保障するとともに,区ごとに条例制定権も与える等,単なる「二重行政の解消」という問題を超えて,「基礎自治体優先の原則」を徹底し,都道府県や道州の干渉は最大限緩和した,広域自治体と基礎自治体の機能の峻別をなすことが重要である。
  このような施策は,憲法第92条の地方自治の本旨,第93条の地方公共団体の議会設置,地方公共団体の長及び議員の直接選挙,第94条地溝公共団体の財産管理,事務処理,行政執行権,条例制定権に現行制度よりむしろ合致し,地方自治法の改正により,より憲法の地方自治の精神が発揮されるものである。
  本稿の冒頭で述べた,わが国の「わ」と「国」とを区別する国民性にも,馬鹿にならない注意が必要である。「わ」と「国」の峻別は,「私」と「公」の峻別である。江戸時代までは,村や町が「私」であり,藩が「公」だった。明治以降,都道府県が広域自治体として国の「公」を補い,市町村といった基礎自治体が,「私」の部分を担っていた。社会が発展し,都市が巨大化するにつれ,市では「私」を包摂できなくなり,指定都市として都道府県から切り取り,ある程度のまとまりを作って各区を設け,市民のニーズに対応したのは,その時点では合理的な流れだったであろう。
しかし今日の超大都市である三大都市においては,市の組織自体が肥大化して都道府県並みとなり,都道府県との二重行政の弊害が顕著になっている。つまり「公」的なものが二重に存し,「私」に対応したきめ細かな行政サービスは困難になっている。このような巨大都市の内部において「私」(わ)の部分をしっかりと充実させて住民のニーズをきめ細かく満たすためには,住民に密着した規模の基礎自治体である行政区に分割し,それぞれの行政区における区長公選制を導入するとともに,独自財源,予算編成,条例制定権も認め,地域のニーズに合った施策を,迅速かつ適正に実施していくことが必要になっている。そして広域自治体としての都道府県,そして将来の課題である道州は,「国」「公」の部分を分担して,基礎自治体における「私」(わ)の活動を背面から,謙抑的にサポートしていくべきである。
  そのような面で,先の大阪都,中京都構想の目指している方向性は,わが国の社会の発展経緯に照らしても,地域主権型道州制の導入に向けた方向性からしても,指定都市を廃止して広域自治体と基礎自治体の二元構造とし,基礎自治体である行政区の住民自治,団体自治を強めていこうということであるから,正しい方向性を持っている(「都市州」の構想も魅力的ではあるが)。
このように,「国」の役割から切り離して地域の「わ」を再生し,活発な地域の力を活用し,その住民自治と団体自治の活力を,基礎自治体単位で遺憾なく発揮し,広域自治体は「国」の要素を分有して,地域主権を背後から謙抑的に補おうとする考えは,わが国において今後国と地域が持続的かつ自立的に発展していく上で,不可欠の要素となっていくと考えられる。
                                 以上

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投稿者: imaeda

橋下氏と裁判闘争した私が維新の会の政治塾を受講していたことは、やはり、ある程度の反響がありました。
思ったよりは、賛否両論でした。
しかし、光市母子殺害事件や橋下氏との裁判のときほど、批判されたり叩かれたりというのは多くありません。
「褒められるのは2流、叩かれて1流、相手にされないのは3流」と思っていますから、批判や中傷でもそれなりに嬉しいものです。
そういう意味では、25日の日記に対する鈴木淳さんのコメントは、中身のある批判に加え激励も込められたもので、最高に嬉しい部類に入ります。ありがとうございます。
どんな批判でもいいので、いろいろと批判的な意見をもらいたいです。
クレームや批判の中にこそ、進歩の材料があると思います。

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投稿者: imaeda

3月24日土曜日、大阪維新の会政治塾の開講式があり、朝9時に出て、夜9時に帰ってきました。
現時点ではまだ正式な塾生ではなく、1次合格しただけで、5月までの5回の講義や、提出論文等を通じて、2次合格800~1000人をもって、正式な塾生とするとのことです。

橋下徹代表と裁判で争っていた私が応募していたというのは、やはり意外性があり衝撃だったようで、マスコミ各社から取材を受けました。単に面白いからかもしれませんが・・・
一般的には、橋下さんと私は敵同士で、裁判で遺恨を残した、と思われているようです。
しかし、私の方はまったくそのようなこともありません。おそらく橋下さんもそうでしょう。もうあまり覚えていないかもしれません・・・
「どうしてまた貴方が、橋下氏がトップの維新の会の政治塾に応募したのか」とよく尋ねられますが、一から全部をうまく説明するのも一苦労なので、ここでまとめて説明しておきたいと思います。

光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を、橋下さんが「たかじんのそこまで言って委員会」で呼びかけたのが平成19年の5月。これに対し、私を含め4名の弁護団構成員が損害賠償請求を提起したのが、同年9月のことでした。
当初橋下さんと私は、お互いのブログを通じて互いを批判しあい、ブログ合戦がニュースとなったりしました。批判しあうというか、ほとんど罵っていました。
しかし、しばらくして、橋下さんが「原告今枝弁護士へ」というかなり長い文章を、ブログにアップしました。その内容は、私の理解では、私の個性と人格を認めてくれた上で、より洗練された弁護士となるよう、アドバイスとエールを送ってくれたものでした。社会で注目される重大事件の弁護をするのであれば、それだけの覚悟をして、必死に説明責任を果たし、国民目線を感じ取れる、洗練された現代型弁護士に脱却せよ、と呼びかけるものでした。
私は、テレビタレントである橋下さんと、社会的な非難を受けながら刑事弁護を実践していた私とでは環境が違うという思いで、反発心と意地もあり、橋下さんのアドバイスが直ちに理解できませんでした。それでも、私のブログを通して、光市事件の被告人の境遇や供述、主張内容の説明をしたり、刑事弁護についての理解を求める記事を書いたりしているうちに、それに対する反応を見たりしながら、国民全般の理解を得るだけの言葉を発し、説明を尽くすことの、困難性と重要性を、少しずつ理解するようになりました。
その後私は、「犯行態様を突き詰めて殺意の否認を重視するのか」、「犯行の計画性がないことや情状を重視するのか」という方針や、マスコミ対応についての考え方で、弁護団の主要メンバーと意見が対立し、結果として被告人に解任されました。とは言っても、弁護団側としては、その当時私が精神的に動揺しており、独断で情報発信しているなど、被告人や弁護団にとってリスクになってしまっていたのが原因であっただろうと、今は反省しています。
しかし、私の考え方に大きな変化をもたらしたのは、公判廷での本村洋さんの意見陳述であり、ブログでの橋下さんからのメッセージでした。
以後私は、裁判員裁判も始まることであるし、刑事弁護の役割として、国民に対する説明責任を果たすことが重要であると考え、各種の取材に対し、基本的に取材拒否をせずに、自分なりに誠意をもって対応するように、心がけるようになりました。恥を忍んで、本も出しました。相当のプレッシャーでしたが、「たかじんのそこまで言って委員会」をはじめ、いくつかのテレビにも出て、説明責任を果たすよう努力しました。テレビに出ることは、決して楽ではありませんでした。プレッシャーも当然大きいし、「目立ちたくて出たがっているのだろう」と思われるだろうし、「守秘義務に反している」とか、「依頼者の利益になっていない」という批判が生じることは、当然予想できたことでした。これらの行動自体が、懲戒請求を招くことも当然懸念されました。自分なりに弁護士倫理に反しないよう心がけ、懲戒請求はありませんでしたが、やはり批判はされましたし、落ち込むこともありました。
しかし私は、弁護団を解任されて、法廷で被告人を弁護することはできなくなったものの、「被告人がどういう人間で何を考え何を言っているかについて、正しい情報を社会に伝えるのが自分の責務である」というふうに考えました。幸い解任された後も、被告人と私の関係はまずまず良好で、私が冷静に判断して取材に応じる限りにおいては、被告人が情報発信を私に任せてくれたので、思い切っていろいろなことも言えました。
弁護士の中にはマスコミ嫌いの人が多いですが、私は、マスコミ関係者も多かれ少なかれ「真実を報道したい」という良心と意欲を持っており、報道スタンスが弁護士に比べ国民に向いているというだけで、誠意をもって対応し、良い報道をしてもらう努力を尽くせば、それほど悪い事態にはならないだろうと思っています。もちろん記者や編集者の考えから、否定的に報道されることもありますが、それもやはり、国民感情を見てなされており、自分自身の考えを客観的に見つめなおす機会になります。コメンテーターの質問や反論は、たいへん厳しいものがありましたが、それに対し瞬時に判断して、説明を返すということは、想像以上にハードな作業であり、判断力や構成力を必要とし、苦痛や恥ずかしさを伴うことも多々ありました。しかし私は、説明・説得の能力を磨く機会と捉え、一生懸命ハードな作業を続けました。
私は私なりに、橋下さんが示唆した、国民感情を意識した、説明責任を果たす弁護士になろうと努力しました。しかし、評価されることもあれば、評価されないこともあるし、厳しい批判にさらされることは、幾度もありました。それらについては、徐々に慣れて強くなったのですが、一番つらかったのは、それまで私を評価してくれていた人や、親しかった人が、豹変してしまった私を目にし、離れていくことでした。私も、それまで通り、自分のことを評価してくれている人たちや、慕ってくれる後輩弁護士らに囲まれて、それまで通りの弁護士活動をしていたら、平穏にかつ安定して弁護士生活を続けられたのかもしれませんが、価値観のパラダイムシフトが生じてしまったのですから、致し方ありません。理解してくれる人達の励ましを支えに、頑張っています。
なお、橋下さんへの損害賠償請求訴訟については、光市の事件で平成20年4月に広島高等裁判所の差戻し審で死刑判決が出て、それまで全部ではないにしろある程度正しいと思ってきた弁護活動が全否定され、「正当な弁護活動を懲戒請求の扇動で非難された」という前提のぐらつきに動揺した私が、「たかじんのそこまで言って委員会」にて「橋下さん氏への裁判を取り下げる」と発言し、実際に橋下総合法律事務所にその旨電話連絡しました。しかし、同事務所の若手弁護士に「橋下先生から、『今枝弁護士が取下げると言ってきても、この裁判は重要な裁判だから最後までやるべきだと言って取下げに同意しないように』言われているので同意できません」と言われ、取下げできませんでした。民事裁判は、相手の同意がないと取下げません。その後この裁判は、1審で名誉棄損と業務妨害が認められ、橋下さんが弁護団に謝罪しましたが、2審で名誉棄損は外れて、業務妨害だけ認められ、最高裁では全面的に請求が退けられ、当方が逆転敗訴しました。
裁判の結論はともかく、橋下さんとの間で、刑事弁護の意義、裁判報道のあり方、表現の自由と知る権利についての議論ができたことは、有意義だったと思っています。

他方で、今年の2月、光市母子殺害事件は、最高裁判決が出て、その後被告人側から判決訂正の申し立てがありましたが、それも却下されて、死刑判決が確定しました。
しかし最高裁判決は、4人の裁判官中1人が反対意見であり、一定の範囲で弁護団の主張が認められたので、これを足掛かりにしつつ、弁護団がさらに立証を補強して、再審請求がなされるのだろうと思います。私は、死刑の是非はまた別にしても、裁判で被告人の特殊な人格や内面が十分解き明かされたとは思っていませんので、さらなる解明が試みられることは、有意義だと思います。
私は状況的にそれに加わることはできませんし、その内容も分かりませんが、私自身は今後もできる限りは被告人と関わり続け、彼の成長と更生の手助けになりたいと思っています。仮に死刑判決が覆らないにしても、彼は成長して事件と向き合い続け、反省を深め、謝罪の言葉を発する努力をすべきですし、それを助けるのが私の責務と思っています。
また、光市母子殺害事件は、幼いお子さんが被害に遭っていますが、私は他にも、広島女児殺害事件(木下あいりちゃん事件・ヤギカルロス被告人)等の弁護をしてきたこともあり、子どもが犠牲になる事件をたくさん見てきました。私自身の妹も幼少時に亡くなっていますし、小中学校の時代に友人を事故と事件で亡くしました。子どもが亡くなったときの親をはじめとする親族、友人、学校関係者らの悲しみというものを痛いほど感じてきましたし、裁判でも直に接してきました。私は公益社団法人広島被害者支援センターの役員をしていますから、同センターが主催する講演等で被害者や遺族の痛切な思いの吐露を目の当たりにする機会も多くありました。
ですから私は、重大な刑事事件の弁護は続々と増え続ける後輩弁護士らに任せ、私自身は、犯罪や事故や災害で命を落とす子どもが1人でも減るように、他の人にできない取り組みに向けて行動したいと思いました。そのためには、防犯についての知識と態勢づくりが必要ですし、犯罪者の更生保護の徹底が重要です。私は、東京地方裁判所刑事部の事務官、東京地方検察庁の検察官、そして弁護士として、何百もの刑事事件を見たし、その犯罪を犯した者や関係者らと話をしてきましたので、何かの役に立つ場面が必ずあると思っています。

光市の事件の最高裁判決があったのと時を同じくして、私は、大阪維新の会の政治塾のことを知りました。
正直、すぐに応募する決心はつきませんでした。
橋下氏と私との過去の関係からすると、そもそも合格させてもらえない懸念もあるし、仮に合格できても、いろいろな意味で世間から非難を浴びるかもしれないと、予想できたからです。大分免疫ができたとは言え、私も叩かれれば心が痛むし、恥ずかしい思いもします。
しかし、その躊躇を乗り越えて応募を決断できたのは、やはり同時期に光市の事件の最高裁判決があったという、シンクロニティが大きかったと思います。
私は、広島女児殺害事件や光市母子殺害事件をはじめ、いろいろなことを経験する過程で、苦しいこと、悲しいことをはじめ、様々な経験をさせていただき、貴重な教訓を得てきました。もちろん被告人の刑罰を決めるというのが、刑事裁判の重要な目的であることには違いありませんが、刑事裁判の目的は、事案の真相を解明するとともに、被告人が被害者や遺族、そして自身が再び関わることになるであろう社会との調和のための努力をし、被告人、被害者遺族、裁判を目の当たりにした市民の代表である裁判員、事件に衝撃を受けた社会が、それぞれの立場で犯罪と向き合って、立ち直る努力をする場でもあると思います。しかし、これらの事件で、私が未熟であったゆえに、十分な説明責任を果たせず、被害者や遺族を苦しめ、被告人に対する社会的反発を招く結果になったことは、痛恨の極みです。このままこの事件が終わって風化してしまうのでは、やるせない気持ちがあります。
しかし、これらの苦い経験や貴重な教訓を、無駄にはしたくありません。もしも別のかたちで社会に活かすことができて、それでたとえ1人でも、子どもの命が助かることがあり得るのなら、どんな批判や恥や苦痛も、乗り越える覚悟ができました。もちろん弁護士としての立場でも、できることはいろいろあります、しかし、弁護士人口の増加に加え、刑事弁護の経験がある弁護士はいくらでもいるし、刑事弁護の経験と教訓を法律や条例の制定、システム構築の提言、行政への反映に活かすことができる弁護士は、そういないと思い、自分がそれをやることに決意しました。被害者支援については被害者視線センターの活動を通して実践できますので、その他としては更生保護と再犯防止の問題に取り組みたいと思います。

私を1次合格させるについては、おそらく維新の会内部でも問題意識や議論があったと思いますが、合格させてくれたことに非常に感謝しています。私のように個性が強く、批判も強く受けている者は、既存の大政党ではリスクを危惧し、お払い箱だったろうと思います。
私は、広島の地域に貢献する仕事をしたくてセイカツ(政治活動)してきたし、次回衆議院議員選挙の候補者になるというわけには、環境的になかなかいかないかもしれませんが、いろいろなことを貪欲に吸収して、今後の自分のセイカツの糧としたいと思います。広島市は、原爆投下により、世界で最も子どもの命が奪われた都市だと思いますが、それゆえにこそ、子どもの命が失われない地域社会を築くための努力をしたいと思います。広島を、「平和の都市」だけでなく「平和な都市」としたいです。私が生きているうちに、もし1人でも、私がした仕事で子どもの命が救えれば、本望です。それが私が背負った業だと思います。
・・・正直言えば、いまの社会情勢と維新の会に対する世論の評価などを考えると、ちょっと国政進出に魅力を感じないわけではありませんが・・・。それは自分だけで決められることではないし、まだ決断する局面でもないので、頭の片スミにだけ入れておきます。
「あまりにも橋下さんを持ち上げすぎている」と思われるかもしれませんが、もちろん批判精神は失わずに、良い面は参考にしつつ、ある面では反面教師とする問題意識は、持ち続けるつもりです。

多分に独りよがりな面が多く、理解していただけないところも、多々あろうかと思いますが、後は、今後の私の行動と、その結果で判断していただくほかないだろう、と思います。その過程で、いろいろな非難を受けたり、誤解されたり、誰かを傷つけて涙を流すことがあっても、自分でやると決めたわけですから、誠意だけは忘れずに進むしかありません。
「至誠にて動かざるもの未だこれあらざるなり」です。
長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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投稿者: imaeda

 今週の「週刊SPA!」にも載りましたが、橋下大阪市長率いる大阪維新の会の政治塾に応募し、一次合格しました。
 
 私は、橋下氏と懲戒請求扇動損害賠償請求事件で裁判をやりましたので、話題性があるようです。私としては、恥を忍んで応募を決意したというところです。
 
 週刊誌やワイドショー的には、橋下氏の懐の深さが評価され、私が叩かれることになるかもしれません。それも覚悟の上での応募です。

 週刊現代によると、大阪維新の会は国会議員がいないので国政に関し法律上の政党要件を満たさず、衆議院選挙で小選挙区と比例代表の重複立候補ができないので、比例復活当選もできないようです。
 
 比例代表の上位になれればラッキーですが、そうでなければ私には今のところなかなか国政は厳しいところです。また、現在弁護士としての仕事の依頼を受けている依頼者に迷惑をかけないような環境整備もしなくてはなりません。

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投稿者: imaeda

 3月11日、海田自衛隊の第46普通科連隊創隊42周年の記念式典に来賓として出席させて頂きました。
 昭和45年に創隊、今年で42年ということでしたが、私が昭和45年生まれで今年42歳になるので、同い年ということになります。
 奇しくも昨年東日本大震災が起きた3月11日ということになりましたが、自衛隊のみなさんは、約3か月間災害救助、復興支援の活動のため、東北地方に言っておられたそうです。中には、遺体捜索という辛い仕事もあったと思いますが、みなさん責任感をもって職務を全うされたようです。

 自衛隊というと、弁護士の中には憲法9条に違反し違憲であるという意見の方も多いですが、災害救助や火災救援などを通じて、自衛隊への好感度は上昇しているようです。自衛隊設立の本来の趣旨とは別の活動かもしれませんが、国のために身を挺して働いておられるみなさんが、社会から必要とされ、高い評価を得ることは、喜ばしいことだと思います。
 みなさん、本当に生き生きとした顔をしておられました。

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投稿者: imaeda

昨日、母校である広島学院高校出身の法律家の会がありました。

今年は、広島修習の司法修習生が4人いました。
学院は、東大・医学部志向が強く、大学受験で勝負が決まらない司法試験にはあまり進出しておらず、修道高校に大きく差をあけられていましたが、新司法試験になって、かなり人数が増えてきているようです。
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